「イムジン河」伝説 (驚きももの木20世紀)


いろいろ問題はあるけど日本は平和で幸せな国です。

■イムジン河 フォーク・クルセイダーズ

「イムジン河」

        朴世永原詩・松山猛訳詞・高宗漢作曲

イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由にむらがり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る

イムジン河

イムジン河 (いむじんがわ) は、朝鮮民主主義人民共和国の曲。高宗漢 (コ・ジョンハン) 作曲、朴世泳 (パク・セヨン) 作詞。原題は『臨津江』(リムジン江)。1957年7月発表。

ザ・フォーク・クルセダーズ版『イムジン河』

日本語詞のついた『イムジン河』として最もよく知られているのが1968年にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。臨津江(リムジン江)で分断された朝鮮半島についての曲であり、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。

もともとは、のちにフォーク・クルセダーズやミカバンドの作詞を担当することになる松山猛が京都での中学時代、朝鮮学校の学生たちと喧嘩に明け暮れていたころに耳にした曲で、朝鮮学校の生徒からメロディーと歌詞を教えてもらったことがきっかけだった。松山は後にフォーク・クルセダーズ(当時はまだアマチュアで、正式には「フォーク・クルセイダーズ」を名乗っていた)のメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の『臨津江』とは全く成り立ちが異なる。

デビュー曲で大ヒットとなった『帰って来たヨッパライ』に続く第二弾として1968年3月に東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)が発売したのが、このアマチュア時代から歌い継いできた『イムジン河』だった。東芝の関係者の証言によれば、『帰って来たヨッパライ』でデビューするようフォークルを説得していた頃から、「第二弾はイムジン河で行ける。ヨッパライがこけてもイムジン河がある」と考えていたとテレビ朝日の番組で証言している。つまり、『ヨッパライ』は『イムジン河』の前座だったということになる。少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があったのが事実である。ところが発売前に数回ラジオにかけた後に、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定。結果的に放送自粛的な雰囲気が広がった。

2001年には「日本語詞:松山猛、編曲:加藤和彦」として日本音楽著作権協会に登録された(北朝鮮は当時ベルヌ条約に加盟していなかったため、原曲の作詞者・朴世泳と作曲者・高宗漢の著作権は「なし」となっている)。2002年3月21日、アゲント・コンシピオより34年の歳月を経て初めてシングルCDとして発売された。ちなみに加藤和彦の55回目の誕生日だった。2002年4月15日付のオリコンシングルチャートで最高14位を記録した。

発売自粛の理由

この曲はもともと朝鮮民主主義人民共和国では有名な曲で、松山やメンバーらの考えていたような民謡ではなく、高宗漢の作曲、朴世泳の作詞によるものであった。オリジナルの曲では、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、一番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、二番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと思いを託す内容である。松山の歌詞では、北の幸せさに対し南を哀れむもともとの二番の歌詞は、分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく違う物となっている。松山の歌詞には、オリジナルにはない三番がある。

東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが朝鮮民主主義人民共和国の歌であることと作詞作曲者名を明記すること、原詩に忠実に訳すことを求めていた。後者に関しては、洋楽の日本語訳詞でも原詩と完全に一致する訳で無い物も多かったためあまり問題ではなかったものの、レコード会社は国交のない朝鮮民主主義人民共和国の名を出すことを躊躇し、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国の曲が日本国内でヒットすることを望まなかったためレコード会社に圧力をかけ、結果発売自粛となったようである。また、東芝音楽工業の親会社の東芝が大韓民国内での家電製品のシェア拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説もある。

その後

1968年11月25日には朝鮮総連が指定した李錦玉による訳詩でザ・フォーシュリークが『リムジン江』というタイトルでレコードを発売し、当時 20万枚以上を売り上げた。1969年8月には松山猛・平沼義男・芦田雅喜の3人によって結成されたフォークグループ、ミューテーション・ファクトリーによって松山猛の訳詩による『イムジン河』を吹き込み、アングラ・レコード・クラブから配布された。ミューテーション・ファクトリーの『イムジン河』は、現在オムニバスCD『URC シングルズ(1)』で聴くことができる。

日本国内では1970年前後の過敏な状態も1990年代〜2000年代前半頃には表面的には収まっている。ザ・フォーク・クルセダーズを扱った番組や、ラジオ局の開局記念番組などで「音楽史の一部」としてながらも放送されている。

1997年、新井英一のCDに自身の訳詩による『イムジン江』が、1999年にはRIKKIのCDに『イムジン河』が、1999年には田月仙の CDに『イムジン江』が収録されている。テレビ放送としては2000年6月にTBS筑紫哲也 NEWS23で田月仙がライブで歌い、2001年(松山猛による詩ではないが) NHK紅白歌合戦の放送に載り、2002年11月17日にはザ・フォーク・クルセダーズの新結成記念解散音楽會のNHK BS-2における放送では松山猛の詩による『イムジン河』が放送された。ザ・フォーク・クルセダーズの新結成記念解散音楽會では松山猛の1968年当時の歌詞と、松山猛による新たな歌詞をつけた『イムジン河〜春〜』の2つが披露された。2005年5月29日の愛・地球博の『青春のグラフィティコンサート2005』では松山猛の1〜3番の歌詞に加え,『イムジン河 〜春〜』の詩を4番に加えた『イムジン河』をばんばひろふみが披露した。

しかし2006年現在でも放送の自粛が完全に終わったとは言えない状況である。たとえば、映画『パッチギ!』のプロモーションで各放送局を廻った担当者は、どの局でも『イムジン河』と聞いただけで難色を示されたという。また、この歌が昼間からラジオあるいはテレビから流れることは滅多にない。

また、ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』のB面曲として発売される予定であった『蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語』は、1970年に『大蛇の唄』としてシングル発売された。

『悲しくてやりきれない』との関係

なお、発売自粛となったこの曲の代わりにザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売された曲が『悲しくてやりきれない』であり、 2002年に発売されたシングルCD『イムジン河』のカップリングにも収録されている。同曲は、実はイムジン河のコードを反対からつなげて作ったと言う逸話も残っている。が、音楽理論上から見ると機械的なコード操作では無理で、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。(実際、加藤は「(曲を作るために用意された時間内でなかなかメロディーが出来ず半ばやけくそで)メロディーを逆から辿っていたらメロディーをひらめいた」というようなことを以前証言しており、そこからわずか2〜3分でメロディーを完成させたらしい。)

■悲しくてやりきれない フォーククルセイダーズ

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